2011年12月8日木曜日

法的推論に関する新著2冊

 法社会学に関係する2冊の本(小宮友根氏の『実践の中のジェンダー—法システムの社会学的記述』(9月刊、新曜社、2800円)と、船越資晶氏の『批判法学の構図—ダンカン・ケネディのアイロニカル・リベラル・リーガリズム』(11月刊、勁草書房、4500円))が公刊されました。各著者より贈呈をいただきました。感謝します。
 表題によれば、小宮氏の著作は、法的実践を素材にジェンダーの社会学的分析をめざすもので、船越氏の著作は、法学者ダンカン・ケネディ(ハーバードロースクール教授)の学問を描こうというものです。両者は、背景となる研究関心も手法も異なるものですが、いずれも法にもとづく判決などの決定作成作業の論理的(ないし合理的)側面(法的推論)の分析が重要な部分となっています。以下では、この2書が法的推論をどうとらえているかを比較して、若干の感想を述べます。また小宮氏の著書を『実践』、船越氏の著書を『批判』と略称します(これは、書名の最初の2文字をとったものです)。 
 『実践』は、第1部「社会秩序の記述」と第2部「法的実践の中のジェンダー」から成り立ち、第1部は社会を見るための方法論的準備というべきもので、ここでとりあげるべき部分はその第2部ですが、そのうち第7章は立法ないし法理論の産出という現象を扱うもので、一種の応用問題になります。実質的には、第4章から第6章(ほぼ、195-244ページ)です。『批判』のほうも7章からなるものですが、そのうち、ケネディの説を祖述して、法的思考の記号学、法的思考の現象学を説明する第1章と第2章(77-144ページ)がそれにあたるでしょう(残りの各章はその基礎や含意を述べるものと考えることができます)。以下では、その部分に限定して、両著を眺めてみます。なお両者の主題は、法的思考とか法的議論とか表現されていますが、「法的推論」に統一します。
 『実践』によれば、法的推論は正当化を中心にとらえられ(195-196ページ)、それは演繹的正当化(法命題を大前提とし事実を小前提とする)によって果たされるとされます(158-159ページ)。ところで演繹的正当化を行うには、「法命題を『pならばq」を命じる規則として提示し、また認定する事実がまさにその規則が適用されるべき「p」として提示する実践が含まれなければならない(170ページ)。たとえば、その実践は、刑法の準強姦罪(当時)に含まれる「抗拒不能」という表現の意味とされる「抵抗などが著しく困難な」という表現の意味を知ることに依存する(173ページ)。このことは、つきつめると、「解釈によってではなく実践によって・・常識的知識を用いて[被害者]に帰属される判断能力を複数結びつけることで『抵抗が困難な状態ではない』と実際に判断を下しているのである」(183ページ)。著者はつぎのように結論します—「演繹的推論(法的三段論法)に基づく正当化とは、単に法命題に解釈を与えて事実に適用し判決を導くことではない。・・法命題を事実に適用するというのはむしろそつどの個別的な事実を、一般的な規則の適用対象であるものとして実際に扱うこと、すなわち規則の適用それ自身のうちで規則の命じることをあきらかにすることなのである。こうした実践に支えられることで、法的推論はその理解可能性を獲得している」(185ページ)。このことの含意の一つは、法の通説的適用が「貞操観念」とか「性的自由」といった観念の常識的解釈によって支えられていることで、第5章と第6章で例証されます。
 『批判』においても、ケネディ=著者によれば、法的推論は選択されたルールを前提として「正当化」を行うものです(78-79ページ)。ルールの正当化は、 FR[形式論にあたる論理]とEF[実質論にあたる論理]など、さまざまなケースで繰り返し援用される定型的な『断片(bite)』と『対抗断片(counter-bite)』のペア」(78ページ)を用いるとされます。これらのペアは「法的言語の辞書」に登録されるので「それによって法的議論は、日常的議論や哲学的議論などから独立した独自の議論領域を形成する」(82ページ)、また、形式的に操作されたり(82-84ページ)、重複的に行われたり(84-86ページ)することで『器用仕事』になると主張されます。「記号学」とはこのような分析で、『実践』の法的推論の分析で[常識的知識」の作用が強調されていたこととは対照的に、法的推論の専門性を主張するものです。他方、法的推論を当事者対抗的関係のもとでのルールにもとづく演繹的推論とみなす考えは両者に共通しています。『批判』第3章では、このように分析される法的推論を、「内的経験」(98ページ)に照らして「検証する」こと(「現象学」)が試みられます。ある場合には、法的推論を行う[裁判官」(105ページ)が、「ルールと自分の選好する結論の間に距離」(109ページ)を感じることがあり、その場合、裁判官は、「眼前の事実と似たような状況に対して繰り返し適用されてきたルールが存在し、これが強力な境界線となり[諸政策や先例]を合法/不法の2つの領域へと明快に分割している」状況に直面するとされます。裁判官は、境界線を動かそうと努力したり、複数の事件の間で精力を配分したりします(108-110ページ)が、実はその状況は「一方的な操作対象」(110ページ)ではなく、「法は、受け手たる裁判官に対して誠実な応答を求める規範的力を備えたメッセージ」(110ページ)と受け取られています。そこで、「ケネディ現象学においては、単純に『法が結果を決定する』とはいえなくなってしまっている。・・ケネディにとって、法的推論は意志的な行為であり、その結果は、物理的制約(時間・労力)・裁判官の選好・裁判官の技能・作業戦略・場の性質などさまざまな要因の函数になっている。・・それでは、いったい何が結果を決定するのであろうか?ケネディによれば、この問題に対して法解釈実践内部から与えることのできる唯一の答えは、裁判官自身の「決断(decision)」 であるということにならざるを得ない」(114-115ページ)と主張されます。著者は、法的推論のこうした分析が「裁判官の裁定が有する自由/拘束の両義的性格を巧みに捉え、『枠付けられた決断主義』あるいは『主意主義的教義学』とでも呼ぶべき法的思考モデルを提供する」(136ページ)ものとして基本的に高く評価します。
 両著作は、法的思考のうちの合理的側面である法的推論を、内在的に—社会的個人的諸要因などに還元しない仕方で—理解しようとする方法論的指向性を共有しています。他方、両者は、法的推論を常識的知識を内在させる継続的達成なのか(『実践』)、それとも専門的な伝統その他の諸拘束のもとで行われる決断に収斂するものなのか(『批判』)について、基本的見解を異にしているようです。ただし、たとえば「抗拒不能」という概念は、専門的であるとともに常識的なのでしょうから、その差異は、強調のしかたの違いに由来する部分が大きそうです。
 簡単な感想を述べます。私は、法についてこうした内在的分析がなされるようになったことは好ましいと思います。たいへん勉強になりました。ただ、両著者とも、法的推論の重要な目標を正当化にみようとしていること、その結果として、法的三段論法を法的推論のモデルとして基本的に維持していることは、賛成できません。私の観察するところでは、法学部で学ぶことは、法的推論の目標が事案に、実際に・ここで・この事件に・ひいてはこの社会に、結論を与えることにあり、それがどう正当化できるかは重要性としてはその次にくる問題だということだからです(古い論文ですが、私の「議論による法律学の基礎づけは成功したか」『神戸法学年報』8号1-21頁(1993)や「社会過程としての法解釈」『法社会学』45号64-73頁(1993)は、そういう見地から書かれています)。法規やそれを用いる推論の有用性は推論を行うことにより事案の解決に至ることが認識可能な仕方で達成されるというその能力にあります。それらは、和解、調停、あるいは法のもとでの交渉でもみられ、常識的でも専門的でもありえます。このことから、法的推論も三段論法では記述できない実践的構造をとると考えられます。それは「行きつ戻りつ」するものですし、両著にその実例があるように、事案の具体性の中で「仮の判断」や「結果の予想」などを含むものです。たとえば「抗拒不能」という要件は、事案の具体性のなかに、強制や威迫とそれに対する抵抗を、実際に、見聞きできるかという探求を促すものです。私の考えでは、それらの行為を行うことのなかにある具体性として法的推論の本体があり、また、そのような行為への指示を与えることにこそ法学の意義があると思います。二人の著者がこれに同意してくれるかどうかは、著作からはわかりません。
(写真は、それぞれの表紙。2011.12.9 追加)

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