2011年11月16日水曜日

オリバー・サックス『手話の世界へ』(1996)

 オリヴァー・サックス(Oliver Sacks)は、1933年ロンドン生まれニューヨーク在住の神経学者(現在コロンビア大学教授(神経学および精神医学)、医師、医学エッセイスト.本書は、Seeing Voices: A Journey into the World of the Deaf,1989年(増補版1990年)の翻訳(佐野正信訳).第1部は、Harlan Lane, When the Mind Hears: A History of the Deaf (1984) の書評として1985〜86年に書かれたものをもととしてろう者の歴史に触れるもの.第2部は、手話(American Sign Language: ASLなどの自然に発達した各種手話)が言語の一種であることを、手指法(Manual Sign Language)、手指英語(Signed English)などの音声言語への付属性の強いサイン体系(言語ではないとされる)、および音声言語(発話言語)と比較しながら、多くの研究を引用しつつ論じるもので、本書の中心部分(1988年秋執筆)、第3部は、ギャローデット大学(Gallaudet University、ワシントンD.C.)のろう者の学長選任を求める学生反乱の報告です(1988年6月までに執筆).David Goode A World Without Words (1994) の翻訳計画の背景学習として読みました.
 本書で、サックスは、現象学的心理学者ジョーゼフ・チャーチの議論をひきつつ、言語の獲得を人間性の必要条件と述べており、ディヴィッド・グッドは、本書には言語をもたなかった人々がかなりの程度の社会参加と間主観性(コミュニケーション)を達成したという臨床的証拠が含まれていることを指摘して、言語獲得と人間性を結びつけるこの考え方に反対しています.たしかに、サックスが引用するチャーチの議論(訳書86〜87ページ)は、言語獲得により、「その個体の経験と行動と概念は、すべて・・・シンボル化された経験にしたがって仕立て直される」というものであり、その個体がそれによって人間とよべる資格をえるかどうかには触れていませんから、サックスはいささか哲学的な勇み足をしたように見え、それは、グッドが主張するようにその議論が不当であるならば、ある種の知的な偏見を示すものと言うこともできるでしょう(グッドの指摘を受けて、サックスは本書の臨床的証拠がその通りのものであることを認めたと言います(Goode(1994), note 1 for Chapter 4)).
 ところで、本書においてサックスは、チャーチの議論と同様に、言語を「シンボルの有無」(37ページ)においてみている、つまり言語をシンボル使用による概念の結合等の操作という活動とみていると思われます.また、グッドの書物で「形式的言語(formal language)」と呼ばれているものは、「共有された形式的象徴的言語(shared formal symbolic language)」(Goode: p.96 )とよばれていることからも、これにあたるとみてよいと思います.したがって、サックスは、手指英語等を、それ自体のなかにシンボル操作が含まれていないので、記号にすぎないものとみなします.これに対して、グッドの言う間主観性は、エスノメソドロジーの用語でいう説明可能性(理解可能性)を意味していると思われます.
 グッドの書物の対象は、手話もふくめて形式的言語を発達させなかった子どもたちです.サックスの本書は、ろう者であることを文化的現象としてとらえるという考え方を強力に展開したものと言えますが、グッドの書物は、形式的言語に体現される形式的理性をもたない人々もまた社会的存在であるという考えを、証拠だてたものと言えます.サックスの本書は、手話が形式的言語であること(したがって形式的文化の要素であること)を主要な論拠としていますが、エスノメソドロジーの伝統に立つグッドの書物は、人間の共同存在が、形式的言語(あるいは形式的概念操作)に依存するという意味での形式的文化に先立つ何ものかに基礎をおいていることを主張するものです.
(写真は、カバー.本書は神戸大学図書館医学部分館所蔵)

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