2011年4月28日木曜日

Albert B. Robillard, "Can He Think?" in his Meaning of Disability: The Lived Experience of Paralysis. pp.145-164.

今回のEMCAセミナーでは、表記の教材をとりあげました.

1980年代後半以降、著者は、唇やまぶた等以外の筋肉の運動能力を次第に失って行っ たようです.本章では、運動能力のない身体という見かけから職業をもたない状態が推測されるという観察から始まって、単語を綴ること、研究助手などの援助 を得て研究を継続すること、共同講義者を得て講義を行なうこと、観察をし学術的議論を組み立てること等の活動を、著者がいかに社会的に組織していったかが 記述されています.

著者の記述は一見してはエスノメソドロジカルな定型にそっていないように見えることから、その観察や、観察される経験をどう理解するべきかという問いがだされました.

こ の点については、つぎのことが注意されるべきでしょう.著者の記述は、正常な仕方(スピード、大きさ等)で筋肉を動かすことができないことが、著者とその周 囲の介助者の間のコミュニケーションを変化させることをあきらかにしています.たとえば、著者がアルファベットを一文字ずつ唇を読んでもらって発話を行な わなければならなかったことの一つの結果は、大学院のセミナーにおいて、「タイミングのよい」コメントができなくなることでした.それがどれほど達成できるかは、この特定の場合には、著者の運動能力だけでなく、唇を読む助手の能力、および、その読まれた発話を進行中の会話に挿入する助手や共同講義者の能力に依存していました.

著者を当事者とするコミュニケーションで「発話すること」が著者にとって不自然かつ困難なものになりました.著者を含むコミュ ニケーションのスピードは著者に関してはきわめてゆっくりした速度になり、またその手段はきわめて限定されたものになりました.ところで、著者が述べるガーフィンケルの エスノメソドロジカルな身体論の実習(逆さ眼鏡、発話モニタリング遅延装置)は、コミュニケーションの身体的基礎をあかるみにだすということを可能にして、著者の経験を理解可能にするための視点を提供するものになります.したがって、著者の記述は、ある固有のコミュ二ケーションの能力ないし構造を記述したという点で、エスノメソ ドロジカル—この場面に固有の方法論を記述したもの—であるというのが、私の考えです.

著者の記述するコミュニケーショ ンの変容の経験は、ある種の自然なコミュニケーションの方法論を通じて、正常なコミュニケーションの基礎をあらわにするものでもあると言えます.

先週とり あげた 教材(David Goode A World Without Words)の第5章では、発達遅滞をもつ人が固有の/尋常でない仕方でコミュニケーションを行なっているということが、ビデオやオーディオ記録の反復的視聴により、 あらわにされてくると述べられていました.またそこでは、ガーフィンケルの電話ベルの実習が参照されていました.両者の著作は、1970年代以降のガー フィンケルの研究と教育の影響をよく現していると思われます(Harold Garfinkel, Ethnomethodology's Program 2002 にその要点が述べられています).

Albert B. Robillard, Meaning of Disability: The Lived Experience of Paralysis. Temple University Press. (1999)

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