2017年1月17日火曜日

Some Q&As from my class of Sociology of Law

2016-17年の「応用法社会学」で寄せられた質問への私の答えです。

Q1. エスノメソドロジーは個々人が行為を行う動機や心理ではなく、集団的に共有された行為の外形や行為を行う規範に着目したものか?

A1. 「集団的に共有された行為の外形や行為を行う際の共通理解に着目したものである」とお考えください。「規範」の代わりに「共通理解」としています。その理由は、「規範」は「共通理解」のシンボルの一つであり、後者は前者よりも広い<社会的事実そのもの>と理解出来るからです。K. バークならば、「動機」と同様、規範も状況の要約表現の一つだと言うでしょう。例。駅の窓口でチケットを買うという状況を考えます。「東京まで一枚」「いつからお使いですか?」「今日からです」などのやりとりを含んで、チケットを買うとします。(1)これは「集団的に共有された行為の外形」をもっています。その共有されるものは、パターンという性質を持っています。(2)このパターンの性質をもちつつ共有される理解は、その行為が「駅の窓口でチケットを買うこと」(という行為のパターン)の一例であるということです。(3)このパターンとして理解とその理解される状況を一つの組として習ったり教えたり、その他反省的に把握しようとするとき、「〜の場合には〜するべし」というシンボル表現を用います。これが「規範」です。

Q2. ケネス・バーグの議論(「人間の観念について」)について

1)「チョーク」というシンボルを作ったとき、それは字を書くものとして認識される。
2)シンボルを持たなければ「石灰の塊」であるのに、「石灰の塊」であるという認識はない。(否定形?)
3)「石灰の塊」という事実からは切り離されている。(自然状態から分離している?)

このような認識でよいか?

A2.
1)「チョーク」というシンボルを作ったとき、それは字を書くものとして認識される。
2)シンボルを持たなければ「石灰の塊」であるのに、「石灰の塊」であるという認識はない。(否定形?)
3)「石灰の塊」という事実からは切り離されている。(自然状態から分離している?)
について、
(1)「チョーク」(というものそのもの)を発明したり、それを通常あるものとして見るとき、それは字を書くという行為のパターンを形成・維持するシンボルを通じて理解されます。
(2)人間がシンボルを用いる((1)のように)ことがなければ、「字を書くためにチョークを用いる」ことは、偶然の才能によるだけ(バークのミソサザイの例)であり、個人間で共有される知識となったり、集団のなかで伝達されたり、保存されたりすることはありません。したがってそれは道具となりません。また、シンボルを持つゆえに、「チョークがない」という否定的認識ができます。
(3)「チョークが石灰の塊である」という認識は、日常的認識としてはとりわけ重要視されないが、自然的ないし物理的事実の認識として可能です。この場合、自然的ないし物理的事実というシンボル群が用いられているのであって、非シンボル的認識が行なわれているわけではありません(Mannheim のドキュメンタリー的認識にかかわる論点)。
(4)人間がシンボル使用によって切り離されるのは、通常、(1)〜(3)のようなことの認識、つまり人間のあらゆる認識がシンボル的なものであるという認識です。(バークの「自然的な存在論」の論点)

Q3. エスノメソドロジーについての説明で言われる「パターン」とは何か?

「パターン」という性質は、質問1、2への答えでも、用いました。そこで確認できるのは、社会の中で集団的に行われる行為や事実の認識は、その集団に共有されるパターンの認識という性質をもっている、また、そのような認識は、行為のパターンの一部をなしている、ということです。Mannheim によるパターンの説明は、このような帰結をもつ、パターンがいかにして相互行為の時間的展開の経過のなかで認識されるのかという問題に触れています。また、Mannheim は文化的パターン(例「印象派」)の認識の基盤を解明するため、人間が(社会のなかで集団的に)行う行為や事実の認識には、3つの階層(記述的、表出的、ドキュメンタリー的)があると主張しました。後者になるほど複雑な認識になります(各後者は、それ以前の者の認識を含むー例:「彼の施す行為(記述的認識)は、憐れみの表れだ(表出的認識)が、実はドイツ市民的偽善の行為である」(ドキュメンタリー的認識)。Garfinkel のデモンストレーションは、このドキュメンタリー的認識が、帰納的でもなく、演繹的でもないこと、また、それが文化確認的とでもいうべき性質(共通文化から出発し、個々の具体的認識を、共通文化の一つの証拠として認識する性質)をもつことを示しています。

Q4. 「ルール」について
明文・不文に関係なく、パターンが一定規模で共有され、かつ規範化されたものを「ルール」というとの理解でよいか?

A4. 答え(1)
その理解で基本的によいとおもいます。たとえば、道路で車が左より(または左車線)を通行しているというパターンが見られますが、それは運転者にとっても、歩行者にとっても、そのパターンが認識されているので、そのパターンの共有(それへの共同参加)が見られると考えられます。このパターンについて、それを前提にした行為が正当だという感覚が提供されているとき、「規範化」されているということができ、そのとき、そのパターンが言語によって表現されているか(明文化されているか)そうでないか(不文のままか)を問わず、その人々の間にルールがあると言ってよいと思います。

Q5. もしそうであるなら、「守らない」という事実がパターン化し、一定規模で共有されているのであれば、「守らない」こともある種の「ルール」と捉えてもよいか?

A5. 守らないという事実について、(1)それが組織化されており、(2)それが規範化されている場合、その人々の間にルールがあると言ってかまいません。そのため、社会学的には、ある組織化されたパターン(車道、横断歩道などの使い方、エスカレータの乗り方、等々)について、人々の複数の集団が、それぞれ別個のルールをもっているという事態が通常であるとみられます。

Q6. また「ルール」について
Xという行為→繰り返し(パターン)→共有→規範化=ルール
という理解でよいか?

A6. 「規範化」の段階が重要かと思います。この段階では、行為のパターンに参加する人々が、そのパターンに対してどういう理解をもつかが問題になります。同一の行為を対象として、繰り返しの可能性のない行為の見方(たとえば、「(特定の日時に)食事した」などの行為の見方)とその可能性のある行為の見方(「朝食をとる」という行為の見方)が区別できます。その行為に直接間接に参加する人々が後者の見方をとっていることがルールの対象としての存在を産出・維持します。前者の類型の見方は、ルールを生み出しません。なお、後者の見方は、はじめてその行為に参加する場合でもとることができます(アメリカに旅行して右側車線を運転する場合、最初からそのパターンは規範化されています)。

補足
(1)ルールをもつ人々は、そのルールに従って行為する人ですが、いわゆるルールの名宛て人よりもその範囲は広いことになります。たとえば、運転者は右側を運転せよというルールは、歩行者(横断する際に右側車線に注意すれば、原則、大丈夫だと思う)にとっても、正当な行為の前提、すなわち規範性をもつことになります。

(2)ルールへの参与という行為はその基礎にあるパターンを一定の観点から選択的に記述する行為を含んでいます。たとえば、上記のルールのなかの「右側」という言葉は、極端な右側や中央よりの右側などの危険性のある位置は対象にしていないということが、当然のこととして、共通認識されていなければなりません(その意味で、「右側」という表現は選択的です)。このことを前提とすると、ルールへの参与があるためには、ルールの表現(「右側」)の辞書的理解をもつことが重要なのではなく、ルールの表現の対象たるパターンの(「右側通行」にいう「右側」だということの)理解が必要だということになります(法律学でいう「目的的解釈」の必然性)。さらに、ここにいう「右側通行」という表現も選択的ですから、同じ問題(「右側通行」は「道路交通の右側通行のことだ」という理解の必要性)が含まれています。このことから、法律やルールの解釈は、無限だ(終わりがない)ということがわかります(パターンを完全に記述することができず、また、パターンが時代・時間・空間によって変化・変異するため)。

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