2010年10月14日木曜日

EMCA Seminar of 2010 / Garfinkel, Seeing Sociologically

今学期のEMCAセミナーでは、The Morality of Rules and Laws として、ルールや法を用いる専門的能力や専門的技術についてとりあげます.先週の第1回は、H.Garfinkel, Seeing sociologically (2006) の、冒頭からRoleの概念までの部分を取り上げました.

エスノメソドロジー・会話分析の視角からは、法・ルールが、それぞれの具体的場面において、一つの統一性をもった社会的(集合的)経験であると見なされます.「法・ルール」は、それぞれの場面において、この独特の統一性を指示する言葉と見なすことができるでしょう.

それぞれの場面での社会的経験は、かりに「ルール追従」とよぶことにします.ただし、ここには、ルールに従うことだけでなく、ルールを発見すること、ルールを修正すること、ルールの例外を見つけることなど、本質的にルールに志向するいっさいの経験が含まれます.

それぞれの具体的な「ルール追従」には、ルール追従の方法論の観点からの理解可能性(アカウンタビリティ)が備えられています.「方法論」は、単なる「方法」とは異なります.「方法」は、観察者の観点から行為者の行為の合理性を理解する(「〜的に見る」)場合に、利用されます.これに対して、「方法論」というときには、その当の実践者の観点からその行為に合理性を与える考慮によって提供される理解可能性を意味します.

観察者も方法論をもちますが、それは観察する方法にすぎません.Seeing Sociologically は、この観察者の方法、すなわち社会学理論ー実践者の社会的経験を観察する方法ーを説明しています.この理由から、本書は、エスノメソドロジー研究とは言えないということになります(A.Rawlsの解説によれば、Garfinkelが本書の原稿を出版しなかった理由は、Goffmanがこの原稿を気に入ったこと、本書が「読まれる」と予想されること、の2つにあったとのことです).しかし、それは、社会学的な見方から決定的な一歩を進めて、エスノメソドロジーのプログラムを実践するための方法を学ぶ手引きとなりますー「役割 role 」という概念は、社会規範の概念が個人行動に付加されたものであるので、社会学の対象を把握する基礎となる概念だからです.

今期のセミナーでは、こうした考え方にもとづき、「ルール追従」(あるいは役割行動)の方法論、とりわけ、その道徳性(社会的に「正しい」とされる性質)に着目したいと考えています.

http://web.me.com/shiro_kashimura/Main/EMCA_Seminar_2010.html

[補論]

本書の該当部分をとりあげた解説には、山田富秋「ガーフィンケルとエスノメソドロジーの発見」串田・好井編『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』(世界思想社・2010年)188-204ページがあります.この解説について1つ注意しておかなければならない点は、ここで中心にあるのは「行為」の概念であるのに、解説では「行為」が「行為者」に吸収されるような仕方で説明されていることです.たとえば、「行為者の概念は『ある人の「自発的な生」の表示、つまり、ジェスチャー、語り、運動、姿勢、顔の歪み等々が、観察者によって理念化される際の手続き規則を意味する』のであり」(195ページ)とされていますが、これでは、「行為者とはジェスチャー..等々だ」とされていることになり、意味がわからないことになります.

この部分の段落は、"Whatever else we may come to mean by the term action one thing stands: the term designates te data that we shall be dealing in at the empirical level. We shall use the term action to mean meaningful or intentional experience. .."(Garfinkel 2006: 102)と始まっています(イタリックは原文のもの).

上に引用した山田さんの翻訳部分(『』内)では、Garfinkel は「行為者」ではなく「行為」について述べているのです.「者」のあるなしではなく、ここでは「行為者」の概念が「行為」の概念から引き出される論述になっていることもあり、この論点は、本書全体の解釈のあり方に関連してきます.山田さんの解釈は、「行為者」の概念を中心的に論じているのですが(たとえば、202-204ページ)、私は著者(Garfinkel)の議論は、行為にかんする議論に価値があると考えます.セミナーでは、Schutz-Parsons論争(1940-1941)のSchutzの立場を引き継いで、パーソンズ理論(行為概念)そのものへの(Schutz自身のものとも異なる)適用を意図した、という解釈を示してみました.

なお、Parsonsはactorについて"It[=act] implies an agent, an "actor"." (Parsons, SSA(2nd edition, 1949): p. 44と言っています.Garfinkel のいう第1の「行為者」の意味と一見すると同じです.Parsonsは"act" を、"process of action"と対比的に使っています.なおGarfinkelと決定的に違うと思われるのは、"It[おそらく=the process of action] must be initiated in a "situation" of which the trends of development differ in one ore more important respects from the state of affairs to which the action is oriented, the end. This situation is intern analyzabe into two elements: those over which the actor has no control, .. in conformity with the end, and those over which he has such control."とあり、行為(action)の概念が行為者による状況のコントロールの有無により境界づけられていることです.この部分の注では、"It is especially to be noted that the reference here is not to concrete things in the situation. The situation constitutes conditions of action as opposed to means in so far as it is not suject to the control of the actor. Practically all concrete things in the situation are part conditions, part means."(イタリックは原文のもの)となっており、自動車(手段、条件)は、運転者(行為者)により、製作されたりできないため条件でもあるが、それを使ってどこに行くかをコントロールできるので手段でもある、と論じられています.Parsonsの"主観的見地"は行為者の客観化を鍵にしているのですが、Garfinkel は、Schutzに学んで、Parsons理論の基盤に遡り、行為を主観化した(観察者の主観に関連づけた)と言えるでしょう.

なお、Garfinkelの「自発性の表現」については、Parsons、現象学のほか、ケネス・バーク『文学形式の哲学ー象徴的行動の研究』(原著論文集のは1941年)との関連性が問題になりうるでしょう.

シュッツ=パーソンズ往復書簡は、改訳版が出ているようです.

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